飯舘村について | 講師陣 | タイムテーブル |
当日の様子 1日目 | 当日の様子 2日目 | 参加者の感想 |
報告書(PDF/1.77MB) |
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素晴らしい天気と紅葉の歓迎を受け、日本再発見塾は開催されました。
菅野典雄村長が「日本は世界一安全な国だったが、いまは世界一危ない国に近づいている。効率一辺倒で走ってきた後遺症。までいライフで人と人が心を通わせてほしい」と呼び掛け、黛まどか呼びかけ人代表が「四季の移ろいに人間が合わせて暮らすのがまでいな暮らしのはずです。までいとは何かを見つめ直す二日間にしたい」と開会のあいさつをしました。
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地産地消にこだわったおいしい給食を、参加者みんなで配膳し、いただきました。 野菜のたくさん入ったコロッケが、好評でした。
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飯舘村の達人から、その暮らし方を話していただき、みんなで昔の日本の暮らしに思いをはせようという試みの第一部は、作家の塩野米松師範の軽快な司会で始まりました。
佐藤文良さん(76)のお話
大工の道に入ったのは、高等科2年(15歳)のとき。母には年金がなく、ともかく自立する必要があった。大工は典型的な徒弟制で、理屈ぬきで親方の仕事を見よう見真似で体得していく世界。給料というものはなく、下着やタオルを支給してもらい、夜明け前に家を出て、朝食、昼食、夕食の3食を仕事場で済ませて、夜は自宅に寝に帰る生活。雨の日は大工仕事はないものの、親方が兼業農家だったので野良を手伝った。現金収入はないが生活そのものを実質的に支えてもらう修行生活で、それが三年続いた。」
塩野師範によると、確かに大工仕事というのは、若いうちに体で覚えるのが慣例だったようです。また大工さんが兼業で農業を手がけるというのはよくあったことでした。
塩野師範
「今は建築建材といえば、必要な寸法ぴったりに製材所で機械的に切り出し、翌日には建設現場へと運ばれるが、昔は切り出した木材を山から下ろすまでには、非常に時間がかかった。「もとやま」と呼ばれる職人が木を倒し、角材にして、少しずつ斜面にそって下ろし、川を利用して町へ運ぶ。その間に自然に木が乾いてその木の素性のようなものが現れてくる。だから現場の大工さんは、木のクセをよく見極めてそれぞれどこの部位に使うか、それこそ「適材適所」ということをやった。角材にしても、5寸必要なら6寸角にするというようなあそびが見てあったから、いいところをうまく使うこともできた。」
高野チヨ子さん(80)のお話
高野さんは村の昔の厳しい生活の状況を語ってくれました。
「初めて靴を買ったのは今から56年ほど前だったと思う(昭和30年代初頭か)。村に7軒ほどあった雑貨屋にはたわしや籠と一緒に長靴があった。 それまでは「甚平わらじ」と呼ばれる足先を包み込む形のわらじを履いていたので、靴を買うという発想がなかった。そういう意味では「現金」を使うようになったのは昭和30年代に入ってから。それまではもっぱら米でやりとりしていた記憶がある。初めてセーターを買ったのも昭和30年代だったと思う。それまでは、綿羊から毛を刈り取って糸にして妹に編んでもらっていた。
電気釜を使うようになったのは、昭和40年ごろから。それまでぬか釜(後述)などで消費していた大量のぬかは、牛の床にも使った。我が家の田んぼは5反、だいたい7俵くらい取れた。夫の仕送りが月3万円程度、それでは長男を高校へやることはできなかった。長男は、中学を出たら自分が働くから次男を高校へやってくれといって、進学をあきらめた。」
淡々と語る様子からは、当時の村ではみんなそんなものだったというような雰囲気が漂っていました。
高野さんは、この40年ほど、しめなわ飾りの内職もしています。会場では持参した作品を数点披露してくれました。
永沢清さん(88)
「自分は炭焼きや米作、駄馬などいろいろな仕事を兼業でやってきた。電気が村に通ったのは昭和13年の10月。普通の家では手ランプといって、油に紐を浸し、笠の先から紐を出して着火する、アルコールランプのような光源が一般的だった。篤農家になると、一家に1個電球があって、それがいろりの横の居間に取り付けてあったものだった。
屋根は萱屋根が普通で、どの家も自分の萱場を持っており、そこから萱を刈って溜めてあった。飯舘の場合は10尺(3メートル)の縄でひとくくりできる分量が1軒あたりの分担だった。萱屋根が、トタン屋根にとって変わってきたのは、30年ほど前ではないかと記憶している。
今では『結(ゆい)』単位での活動はほとんどない。結婚式は専用の会館でやるし、葬式も葬儀屋でしている。昔は、結婚式などハレのときには、引き出物(「おつつみ」と言っていた)の落雁や練り物は、『結』の各戸が専用の木型があって夜通し作ったものだった。
飯舘は江戸時代から農耕に使う駄馬の産地として有名だったので、馬市が立ったものだった。相馬藩の陣屋の記録によれば、江戸時代の飯舘村は人口2888人、それに対して馬は1400頭、実に人間の半数に及ぶ馬がいたことになる。」
塩野師範の解説
「『結(ゆい)』というのは、昔はどの田舎にもあった萱屋根を葺き変えるときのグループのようなもの。地域ごとに近隣の8〜9軒からなる『結』があり、それぞれが萱を持ち寄って順番にメンバーの家の屋根の葺き替えを手伝いあった。『結』はしたがって、屋根葺きだけでなくお互いの生活面でも支援しあう共同体として機能していた。馬、特に駄馬は現在のトラクターに匹敵する貴重な農耕の道具だった。この村にトラクターが入り始めたのは昭和39年ごろ。」
塩野師範のまとめ
3人の話にあるように、昔の日本では、この仕事一筋、というよりも、四季折々にできることを何でもやって暮らしにつなげていくというのが一般的だった。だから農業もやれば、炭焼きもやる、大工もやるし、機織りもする。したがって現金収入があまり必要がなかった。
高度成長にともなって、だんだん現金の経済に取り込まれるようになると、村にいたのでは現金収入を得ることが困難なため、人々は山を下りて都会に出稼ぎにでるようになる。そしてそこで知った都会の生活を村に持ち帰る。そんな風にして、それまでの「までい」な暮らしのペースが急速に各地から消えてしまった。今では「結」もないから、萱屋根の葺き替えに1000万円もかかるが、1回の吹き替えで20年しか持たない。それでは萱屋根も持続できないわけだ。一人ひとりの技能の使い捨てでこんなことになってしまった。現代のスピード感や便利さとひきかえに失くしてしまったものへ思いを馳せる2日間にしたい。
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第二部では、飯舘村の各所へとグループに分かれて行き、第一部での地元の達人の話を踏まえ、飯舘の「までい」な生活を体験しました。
(1)里の文化、言葉 (訪問先:大雷神社)
師範:高橋世織、黛まどか、蜂谷宗
達人:赤石沢 弌彦、永澤清、高野チヨ子
「田の神様」大雷神社を訪問しました。最初に奉納されている神輿を見学、そのあと地元の赤坂神楽団による獅子神楽が特別に披露されました。毎月5月に行われる村一番の大祭で数百メートルの行列をなして村内をぐるりと廻って、最後に大雷神社に奉納するとのこと。参加者の大人や子供の顔や頭に迫りながら人々の安寧を願う踊りは、人々の和やかな笑顔を誘っていました。そのあとは神社の建物に移動してのトークセッション。村の事実上の中心地であるこの田の神で50年以上も総代長をしている赤石沢弌彦さん、村の達人の永澤清さんや高橋チヨ子さんが、黛師範や蜂谷師範、高橋師範と村の文化について語り合いました。
高橋師範
「田の神様というのはコメ、稲作の象徴で、それに対峙するのが山の神様。農民は山の人々に対して対抗心があったが、それを河童といういたずら好きの架空の動物に代弁させた。河童の頭の上の皿は水田の象徴なのだ。一方神楽で表現されるウマは山の神の象徴。だから河童がウマをおぼれさす、というような寓話が生まれてくる。」
(2)住まいの文化〜山と共に生きる〜(訪問先:只野俊宅)
師範:佐川 旭、藤原誠太
達人:只野俊、佐藤文良
小高い山地を背に村の景色を望む古民家、只野さん宅にお邪魔しました。
奥の間に座して、只野さんと佐川師範のお話を聞きました。昔は材木を山から直接選んでいたということにはじまり、曲松や化粧材など家々の柱のつくりや、障子やふすまの細かな寸法など、具体的な只野さんのお話から、佐川師範がわかりやすく日本家屋古来の知恵について解説してくれました。
佐川師範
「外来の「まど」は文字通り「窓」。けれど、日本は「間」の「戸」です。家の空間を住む人が工夫して仕切って「まど」をつくる。厳しい自然にさらされながら、いかにして四季を(特に夏)ゆたかに過ごすか。そうして日本では、家屋のつくりの表情やしくみが、折々にかえられるような家造りが生み出されていったのです。」
外に出て、宮大工の佐藤さんの出番です。私たちは一見して太い柱ばかりに目がいきますが、家を支える木材の組み方は1つではないのです。太く長い一本柱が軒下を貫いている様に皆感動しながら、そのほか木の職人の神業ともいえる技術に驚き、聞き入りました。話の合間も、隅々まで木の様々な色と香り、興味深いつくりに参加者たちは、童心にかえったようにはしゃいではあちこちを見たり触ったりしていました。
(3)村の暮らし〜までいな手仕事〜(訪問先:前田直売所)
師範:塩野米松、山村レイコ
達人:齋藤政行、花井正志
前田直売所は、飯舘村にいくつかある農産物直売所のひとつです。今回お話を伺った前田行政区長・齋藤政行さんによると、もともと商売のためではなく、高齢化が進んだ村で、おじいさんやおばあさんたちが気軽に外出し自由に話ができる場を作りたいという思いから、村人のふれあいの場として作られたそうです。そこに次第に皆が集まるようになり、村で採れる野菜などを売る今のような形になりました。建物は約130人もの村の人たちが協力して作ったといいます。
斎藤さん
「飯舘村には昔から「人足」(にんそく)と呼ばれる村人同士の助け合いの習慣があった。若い人、都会から移り住む人にも理解して協力してもらうことが大事」
そして、直売所の建物のすぐ隣にあるのが、これも村人の手作りの炭小屋です。父親の世代までは昔は貴重な収入源だった炭作りを、自分も習ってみたいという50代、60代の有志が集まって作りました。炭焼きのお話を伺ったあと、参加者は実際に巻き割りや俵を編む体験もしました。
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師範:野ア洋光師範 富澤貞身師範
達人:飯舘までい料理担当のお母さん達
第三部はずばり「食」です。今をときめく、分とく山の野ア師範を中心に食に関する貴重なお話を伺ってから、実際に飯舘村の素材を使ったまでいなお料理を頂きました。
野ア、富澤両師範とも福島県のご出身で、郷土料理に対する造詣の深い方々です。郷土料理にはその土地で生き延びるための工夫が一杯詰まっていることを食の歳時記に沿って具体的に説明して下さいました。
例えば・・・
・正月に食べるお節料理にはコブ(喜ぶ)、数の子(子孫繁栄)、橙(代々家系繁栄)等、すべてプラスの意味が込められていること
・4日目に大根飯を食べるのは、大根に含まれるジアスターゼがご馳走続きの胃に優しく作用するという合理的な理由に基づくこと(7日目の七草粥も同様の理由)
・凍み大根、凍み餅、凍み豆腐などは凶作への備えであったこと、凶作が2年続いても持ち堪えるように1年分以上用意したこと
・乾物は保存食であると同時に、美味しいだしが取れることを目的としていたこと
・お節だけでなく、食べ物の名前には必ずプラスの意味を込めたこと。(梨であれば「ありの実」など)
・料理名には季語が含まれていることがあるが、今はその意味合いがすっかり風化してしまっていること(立田揚げの立田は秋の季語であり、本来は秋の料理である)
これらはごく一部ですが、日本の食がここ30〜40年間でいかに変わってしまったか、改めて驚かされました。高度成長時代、食品流通網の発達等、いろいろな要因はあるでしょうけれど、昭和33年にインスタントラーメンが登場したことは中でも大きいと野崎さんは指摘されています。本来、ダシは素材の味を引き立てるものである筈なのに、ダシ自体が主張を始め、日本人の舌がそれにすっかり慣らされてしまったのですね。素材が美味しければ旨みが出るのですから、本来、調味料は不要なのです。
忘れかけていた大切なことを思い出させられるようなお話に続き、食事が始まりました。お料理は飯舘村で郷土料理の復興に努めていらっしゃる地元のお母さん達が作って下さいました。
一般参加者の中からも20名が立候補し、猪鍋やどじょう汁作りにチャレンジしました。お料理は22種類、猪鼻飯、凍み餅等、珍しいものがたくさん並びました。
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「食の歳時記」
身を粉にして働いて下さった飯舘のお母さん達には本当に感謝です。お母さん達も野崎師範や富澤師範と一緒に調理したことが嬉しかったとおっしゃっていました。まさにその場にいたみんなにとって身も心も満足な時間でした。
までい料理 献立
献立 | 食材 |
1 汁、鍋類 | |
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・ままだんご汁 | ジャガイモ、きぬさやに代わるもの |
・だんご汁(すいとん) | 小麦粉、ほか |
・どじょう汁 | どじょう、ほか |
・いのしし鍋 | 猪肉、ほか |
2 ご飯もの、餅類 | |
・猪ノ鼻ご飯 | |
・白おこわ | 餅米 |
・ねりけぇ(そばがき) | そば粉、熱湯、長ネギ、大根おろし、醤油 |
3 おかず類 | |
・煮物 | 凍み豆腐、凍み太根、わらび、ふき(塩蔵)など |
・花豆の煮物 | |
・ふきのうま煮 | |
・あぶらみそ | 大豆:3kg、味噌、油 |
・にんじんときのこの白和え | |
・イータテベイクのみそいびり | ジャガイモ、味噌、砂糖 |
4 漬け物 | |
・キュウリのどぶ漬け | キュウリ、塩 |
・キムチ | 白菜 |
・みそ漬け | |
5 甘味 | |
・あずきかぼちゃ(冬至カボチャ) | 小豆:5kg、かぼちゃ |
・キュウリの甘露煮 | キュウリ、砂糖 |
・凍み餅 | 凍み餅、油、砂糖、醤油 |
6 飲み物 | |
・野草茶 | ドクダミ茶、メグスリノ木、桑の葉茶 |
・黒豆茶 | 黒豆 |
・しそジュース | 赤しそ、砂糖 |
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夜遅くまで、食べたり呑んだり歌ったりしながら盛り上がった家。朝早くから、畑仕事や酪農の手伝いをした家。それぞれの民泊先で、楽しい時間を過ごしました。