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11月20日(土)、さわやかな秋空のもと、第六回日本再発見塾を長崎県波佐見町で開催しました。
秋一番の晴天 |
メイン会場 総合文化会館 |
会場前は収穫の秋を思わせる装飾です。 写真左は波佐見の伝統的なやきもの「コンプラ瓶」 |
皆様、波佐見町へようこそ!
開講式を始める前に、波佐見町に江戸時代から伝わる、人形浄瑠璃の披露がありました。
三味線と太夫の語りに合わせ、高さ1メートル以上、重さ5−15キロある人形を3人で操ります。
※皿山人形浄瑠璃は今から280年ほど前、享保17 年(1732)におこった「享保の飢饉」の際、飢えをしのぐために皿山地区の人々が人形浄瑠璃興業を思い立ち、大村藩内各地を巡業して食糧を得たのが始まりとされています。昭和29 年(1954)から長崎県無形文化財にも指定されています。
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「二日間、元気に楽しく進めていきたいと思います。よろしくお願い致します!」
司会者の百武辰美さん(地元実行委員会副会長)と北村悠美子さんの元気な挨拶でスタート。
続いて、地元実行委員と学生実行委員から塾の目的を含めた挨拶がありました。
地元実行委員会会長 村島亨さん
「我が波佐見町は400 年の歴史と伝統を誇るやきものの町、そして風光明媚な棚田を擁する農業の町です。この波佐見町で、日本再発見塾
が九州で初めて開催されることを大変嬉しく思っています。今回のテーマは『手のつくる豊かさ、手の届く幸せ』です。波佐見町は、気持ちのあたたかくなる町です。皆さんと一緒に手づくりのまちを発見しましょう。2日間を、楽しく過ごしてください。」
学生実行委員 中アまり子さん
「私達学生実行委員は、この日のために9ヶ月間、地元の方々と準備をしてきました。準備するにあたって、波佐見町の良さ、日本の良さを見つめてきました。自分の手で作らなくなったこの時代、いったい何をこの手でつくるのでしょうか。皆さんと一緒に考えていきたいと思います。」
そして、一瀬政太・波佐見町長からは、「地場産業の衰退に伴い、伝統や文化も失われていく気がしています。この日本再発見塾で、今後の地域づくりに取り入れるべきことが得られるものと期待しています。」とのお言葉がありました。
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聞き書きの名手である塩野米松さん(63 歳)が、地元のお年寄りから地域の昔と今についてお話を聞く第 一部は、日本再発見塾の基調をなします。 今回のテーマは「手作りの幸せ」。農業一筋の今里甚太郎さん(93 歳)、波佐見焼工法を代表する「袋流 し鋳込み成型」の第一人者である、河野丈夫さん(68 歳)、地元鬼木に生まれ、近くの家に嫁ぎ間もなく 50 年を迎える、田中和子さん(69 歳)の三人にお聞きしました。
塩野さんは「教える立場ではなく教わりに来ました」と口火を切り、「たくさんのまちでたくさんのひとに会い ました。ひとが一番大切です。90 歳のひとは昭和をまるごと生きています。そうした話から風土やどんなひ とが住んでどんなふうに生きてきたかがわかります」と、このセッションの意義を説明しました。
<今里甚太郎さん(93 歳)のお話>
最年長の今里さんは農家の4男坊です。
「家は、波佐見町岳辺田で、小高いところにあったため、田畑へ下って行くのが大変なところ。畑・田んぼがおおく、波佐見町で田んぼが一番広いところだった。九反の広さを耕していて、昔は一反から七俵とれた。兄弟は八人くらいいたでしょう。」
<河野丈夫さん(68 歳)のお話>
河野さんの名前、丈夫は、普通なら「たけお」でしょうが、河野さんの名前は「ますらお」と読みます。真珠湾攻撃の三日後に生まれ、当時の町長さんが名付け親だったそうです。立派な軍人になれ、との当時らしい願いを込めた名前だったのでしょう。河野さんは陸上自衛隊にいたこともありましたが、生涯の仕事として選んだのは、父親と同じ鋳込み成型。急須や土瓶の口、ハンドル、つるなどをつくる仕事でした。「学を必要とする職にはつけなかった。同じ体を使うなら、自分達がいままでしたこと、がんばったら金になることがよかった。外に出たらがんばっても残業は2時間しかできない。自分のところだと4,5 時間働ける。忙しい時は晩の12 時は当たり前。」と河野さんは当時をふりかえりました。
<田中和子さん(69 歳)のお話>
田中さんは、「棚田のあるところで生まれた。家は棚田でお米をつくる農家で、そこから出たことが無い。中学を出て洋裁学校に行き、20 歳で農家に嫁入りしました。子供のころに比べ、圃場が進み、今はトラックやコンバインが入れるようになりましたが、昔は道が狭く、一輪車もなく、肩で背負っていました。結婚して田が33枚、9反分となり、すべて棚田です。棚田の米は、普通の田んぼの米よりもおいしいとされ、値段も高いのですが、労働力は普通の田んぼに比べ、10倍もかかり、 重労働の為、みな腰も曲がるほど働きました。」と語りました。
塩野さんの「いつが一番幸せでしたか」の問いに、今里さん、河野さん、田中さんとも、「いまが一番幸せ」とのことでした。「こういうことは珍しい。過去がよかったり、未来の幸せを願ったりするのが多いのに。ぼくたちは同じこといえるかどうか」と、塩野さんは会場に投げかけて第一部を締めくくりました。
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野外活動にでかける前に、地元実行委員の方より、この町の風土や歴史とともに、波佐見焼ができるまでの様々な作業工程の解説がありました。
「波佐見焼の歴史」
波佐見焼の歴史は、約400 年前に、大村藩主の大村喜前が、豊臣秀吉の命により朝鮮出兵(文禄・慶長の役)し、帰国するときに、朝鮮陶工の李祐慶を連行し、彼が慶長3 年(1598 年)に村内に登り窯を築いたのが始まりです。鍋島藩は鍋島焼としてお殿様に献上する最高級のやきものを、有田藩は有田焼としてお金持ち が使う高級品を、大村藩は庶民向けの生活食器を最近まで有田焼として作って来ました。しかし、近年になって、産地をはっきりさせようとする動きがあり、ここ十数年は「波佐見焼」の名前で市場に出回っています。 特に波佐見からヒットした商品に「くらわんか碗(注1)」と輸出向けの「コンプラ瓶(注2)」があります。今日でも食器生産が盛んで、磁器製の茶碗や食器類のシェアは国内トップクラスです。江戸時代には、年間5万俵の生産量を誇り、100m以上の巨大な登り窯で大量に生産していました。その後、分業化が進み、波佐見全体で波佐見焼株式会社の体を成しているようなところがあります。
注1 くらわんか碗
簡単な染付紋様を描いた器・くらわんか碗は、波佐見焼の歴史を知るうえでも欠かせないもののひとつです。この名前は、江戸時代、摂津の淀川沿いの三十石船に、小舟で近づき「餅くらわんか、酒くらわんか」と言って売った商人の売り言葉から名づけられました。土もの風の少し粗い素地と簡素な絵柄で、手頃な金額で売られたくらわんか碗は、たくさんの庶民の人気を得ました。磁器碗は高級なもの、庶民には手が届かない、という当時の常識を大きく変え、日本の食文化の発展に大きな影響を与えました。そして、手軽で良質な暮らしの食器を供給するという波佐見焼の姿勢は、400 年たった現在も変わることなく貫かれています。
注2 コンプラ瓶
染付白磁の、燗付徳利に似たコンプラ瓶。別名”蘭瓶”とも呼ばれ、オランダ人やポルトガル人を相手にした仲買商人「金富良商社」によって輸出されたので、その名が付いたといわれます。コンプラ瓶には、オランダ語でJAPANSCHZOYA(日本の醤油)、JAPANSCHZAKY(日本の酒)と書かれた2 種類があります。日蘭貿易の最盛期・1650年頃から明治末期頃まで、醤油・酒などを入れて、オランダ東インド会社により、東南アジアやオランダ国に、長崎・出島から盛んに輸出されました。独自のデザインとしゃれた洋文字はオランダ人の注文で、どっしりとした形は安定を考えたものといわれます。
(注1,2ともに「波佐見陶磁器工業協同組合」のホームページより抜粋)
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野外活動:三股皿山めぐり
三股地区は、陶磁器の原料になる陶石が採れたことから、江戸時代の初期に最初の窯が築かれ、陶磁器生産で大変栄えた地域です。地区のいたるところに、火の神様、商売の神様と、歴史を感じるたくさんの鳥居を見かけます。道の横を流れる川の川床は、陶石がむき出しになっており、かつて陶石を採出していた時には、川底の石を見て、色が白く、質のよい陶石がどの辺にあるかを見極めて採石を行っていました。この地区は川沿いに続く一本道に沿って住宅や陶磁器を作る作業場が点在しています。陶磁器を焼くのにガス窯を用いるようになったことから、平地でも陶磁器が生産できるようになり、かつては100 世帯が住んでいた三股地区は、現在は49 世帯にまで減りましたが、今も丁寧なものづくりが行われています。
川添廣久さんの工房では、陶土を機械ロクロで成形する作業を見学しました。用いる型には型の外側に陶土を押し当てて成形する外型と、内側に陶土を入れる内型の二つの方法があり、外型の方が陶土の厚
みの調整などで技術が必要です。生地の中に空気が入ってしまうと焼く時に膨張して割れてしまうので、川添さんは空気が入らないように陶土を型に押し当ててお茶碗の形を丁寧に作っていました。
松尾悟さんの工房では、急須の一部が透けたように見える「ほたる」という技法の作り方を実演していただきました。透かし彫りに釉薬を埋め込む素敵なデザインの急須が出来上がります。松尾さんの手際良く、切れのある動きには驚きました。鋳込みを始めると手を止めることはできないので、中断や休憩はご法度、成形が終わった品は手形や傷がつかないよう赤子を扱うように持つそうです。「常に勉強はかかさないよ」 と語る松尾さん。
林亀雄さんの工房も鋳込みをしています。でいしょう(石と水、ケイソウ(ガラス質のもの)を混ぜて作ったもの)は石によって硬さが異なるので、配合をそのつど調整し、急須など作る際、部位によって配合を変える工夫もしているそうです。「失敗してもそれを記録し、糧として丁度良い配合を出す、その人の考え方が仕事に出る」と常に情熱を持って取り組んでいる林さんです。
林潤一郎さんの工房では、ロクロを使った成形作業を体験しました。生地は思った以上に硬かったですが、とてもなめらかできめ細かくさわり心地がよかったです。しかしロクロを操るのは思った以上に難しく、最後にお椀は大きく歪んでしまいました。
疋田健一郎さんの工房では、女性たちが素焼きをした器に手際よく絵付けをしていました。器を窯に入れるときには、器をいくつも並べた皿板と呼ばれる細長い板を、バランスよく持って運んでいました。波佐見では、地域の運動会のリレーで、この器をのせた板をバトン代わりに使うそうです。
「藁荷づくり」を見学しました。藁荷は出来上がったお茶碗や急須が割れないようにわらで梱包する方法で、昭和40 年代までは、この方法で陶磁器を包み、運んでいました。湿らせて、柔らかくしたわらを使ってお茶碗とわらを重ねながら丁寧に包む作業は無駄がなく、手早いです。
県指定の文化財になっている智惠治登窯跡は、江戸時代に使われていたものと同じつくりとのこと。天井の部分まできちんと残っているものは極めて珍しいそうです。横8 メートル、奥行き4 メートル、高さ3 メートルの大きな窯。この中に入れた陶磁器をまんべんなく焼き上げるために、職人たちは薪を小さな窓から正確な位置に投げ入れて火加減を調整したそうです。窯の中にも入ることができ、何となく焼け焦げた匂いを感じ、かつてここに薪がくべられ数日間燃え続けた窯の歴史を、ほんの少し体感することができました。
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野外活動:中尾皿山めぐり
中尾皿山地区は、約400 年前に築かれた全長160mを超える世界最大規模の登り窯(山の傾斜に沿って階段状に築かれた窯)を誇る、波佐見焼の主要生産地です。山間5〜6 か所につくられた巨大な登り窯による大量生産が可能となり、それまで庶民の手に届かなかった磁器碗を手頃な価格で売ることができるようになりました。波佐見焼は、日本の器・食文化の発展に大きな影響を与えたといわれています。
窯元には、煉瓦造りの煙突がたち、細く長く続く歩道の手すりには、波佐見焼が埋め込まれて、情感あふれる、アートな街という印象です。波佐見焼は、粉砕、成形、素焼き、絵付け、本焼き、それぞれの工程を分担して行う分業体制が敷かれています。最盛期には1,500 人もの人々が働いていたそうですが、現在は、人口450 名。窯元の数も減りましたが、今もなお丁寧なものづくりが続けられています。
波佐見焼の成形には、電動ロクロ、機械ロクロ、鋳込みなどいくつかのパターンがあり、それぞれの工房を巡り、作業風景を見学しました。電動ロクロは、陶土を回転させながら、指とヘラを使って形を作っていきます。職人の方は、三十代と若く、岐阜で十年間やきものを学んだ後、波佐見に戻り、家業を継いでいる人もいました。機械ロクロは、型を回転させながら、金属板のコテをあてて土を延ばし、形を作ります。電動ロクロより早く正確な形成を行うことができるため、大量生産に向いているそうです。リズミカルに次々に仕上げていきます。
鋳込みは、土を液体状にして、型に流し込んで固める方法です。たとえば、急須の場合、本体と取手と口それぞれの型に土を流し込み固め、最後に各部位を取り付けて完成です。素焼きの前後では二割ほど縮小されるといいます。日常食器にしては少し大きめな急須が多いなと感じたのは、そのためでした。成形が済むと、器は窯元へと運ばれます。成形された器は、大きな板の上に一定の間隔に並べ、900 度の窯に入れ、素焼きを行います。素焼きを終えた器に、高温で発色する顔料(下絵具)で絵柄を付けた後、釉薬(ゆうやく)に浸します。これを釉かけといい、表面が滑らかにするために行われ、今度は約1,300 度の窯で本焼きが行われます。昔は、1,300 度の目安として、見本のゼーゲルコーン(磁器)がぐにゃりと曲がることを指標としたそうです。今は機械により正確な温度を保つことができるといいます。
分業体制では、成形や絵付けを行う職人の方は、完成形を見ることができません。「完成した器を見られないのは寂しくありませんか、気になりませんか」と尋ねると、「自分たちの工程に責任をもってやるだけです。ただし、モノが売れない時代なので、ユーザーからのたくさんの要望に応えていかなければならないという思いはあります。今の信頼関係を大切にしながら、常に良い窯元、絵付けを探すことも重要だと考えています」という鋳込み職人の方のお話が印象的でした。
庶民に慣れ親しまれてきた波佐見焼、完成までには多くの人の手がかけられていることが分かりました。
中尾皿山を歩き、一つひとつの作業風景を目にしたことで、まさに人々の生活の中に窯業そして波佐見焼が根ざしていることを参加者たちは感じることができました。
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野外活動:登り窯焚き見学
三股・中尾皿山を見学した後、参加者たちは「世界の窯広場」を訪れました。広場には、波佐見焼の大量生産を支えた伝統的な登り窯をはじめ、世界で使われてきた窯が再現されています。町の催しがある際には、ここで窯焚きが行われます。今回は特別に、波佐見町の工業組合青年部の方々が前日から窯焚きをしてくださいました。
参加者は燃え上がる窯の中へ薪をくべる体験ができました。炎の色は眩しいオレンジ色で少し近づいただけでも熱さが伝わり、参加者の中には緊張した面持ちでおそるおそる小さな穴から薪を投げこむ人もいました。コツがつかめず、上手く奥まで届かない薪も少なくなかったようです。窯焚きは夜まで続けられ、夕食会の後にも、参加者の一部が再訪しました。
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夕食は、大勢の地元のお母さん達が、心をこめて郷土料理を作ってくださいました。呼びかけ人の野ア洋光さんからは食と器について、地元のお母さんを代表して尾崎久美子さんからはテーブルに並ぶ郷土料理について、実行委員の廣田さんからはこれから皆が使用する波佐見焼のお皿について話がありました。
<料理について 野ア洋光さん、尾崎久美子さん>
今日の料理は、お母さんたちがとても丁寧につくってくださいました。波佐見の料理は、ふくよかで濃厚な味つけで、とてつもなく美味しいです。会場入口では、大豆を石臼で挽いてもらっていますが、昔は当たり前にやっていました。生きていくためにはものを作らなければいけないのですが、都会ではほとんど作らなくても生きてくことができます。逆を言えば、お金がなくなったら死ぬしかないのです。ものをつくれる、ものを買わなくてよいって、すごく豊かなことだとういことを感じてください。また、今日食べて頂く料理それぞれに、こころがこもった歴史があります。コーナーごとにお母さんがいますので、話をしながら食べて頂ければ、もっと美味しさが増すことと思います。そして器についてですが、江戸時代以前は漆の器を使っていましたが、漆は洗うことができませんでした。磁器を使うようになって、器を洗うことができるようになり、
人々は動物性たんぱく質を食べるようになりました。こういう風に日本の食文化はつくられてきました。関東では瀬戸物とよんでいますが、本当の発祥は長崎から始まっているというのを思いながら味わってください。
<器について 野崎洋光さん、廣田和樹さん>
<廣田和樹さん>
来て頂いたお礼に何かお持ち帰りいただきたいと思い、やきものの町なのでバイキング用のプレートをつくりました。デザインは、野アさんにお願いし、製作にあたってはいろいろな方々から協力を頂きました。陶土屋さん、袋屋さん、箱屋さんから寄付、それから焼くのも工業組合青年部が各窯元でやりました。
<野ア洋光さん>
地元の方達がつくってくださいました。プレートのデザインは、仕切りは鬼木の棚田をイメージしています。プレートに足をつけてのせると新しい形のお膳になります、今は畳ではなくテーブルで食べますので波佐見膳としてどうかなと思います。来年あたり製品になるそうです。
この日の塾の為に、各窯元がお皿に彩り豊かな絵柄をつけてくださいました。
40 種以上ある絵柄の一部をご紹介します。
<盛り付け講座>
野ア洋光さんによる波佐見膳の盛り付け講座。盛り付け次第で、美味しい料理がより一層美味しくなります。
<飲み物について>
波佐見のお茶は、野々川郷の六軒茶屋(6軒のお茶農家)さん、お酒は老舗の今里酒造から4種類用意しました。また、百笑会よりしぼりたての人参ジュース(農薬化学肥料を一切使用していません)、ぶどう・みかん・なしのしぼりたてジュースもご用意しました。アサヒビール株式会社よりビールとジュース、過去の開催地から、ワイン、日本酒、お菓子などたくさんの差し入れを頂きました。
人参は百笑会の皆さんに用意していただきました。(百笑会とは、波佐見町の耕作放棄地を使用し、農薬や化学肥料を使わずに農作物を育てている農事組合法人です)。梨とぶどうは東彼商工会波佐見支部青年部の奥様たちが用意してくださいました。
<伝統芸能 皿踊り>
波佐見の伝統芸能、皿踊りが披露されました。皿踊りは宴会のたびに行われ、観衆を巻き込みながら、やきものの皿をカスタネットのように鳴らしながら踊ります。途中参加者も加り、皆で踊って大いに盛り上がり、会場は一体感に包まれました。
<波佐見かるた劇>
波佐見町の波佐見かるたをもとに、地元の方々が寸劇をつくってくださいました。波佐見の方言をおもしろおかしく、わかりやすく表現し、みんなの目を楽しませていました。
宿泊は地元の民家に。各家で語り合いました。
翌朝は農作業のお手伝いをしたり、朝の静けさの中、ゆっくりと語らったり。朝食は各民泊先の家庭の味を堪能しました。
民泊では棚田がある鬼木地区に住んでいる農家、原田勝行さんのお宅にお世話になり温かく迎えていただきました。お風呂は波佐見温泉を利用。波佐見温泉は、美肌にいいそうで、翌日は本当に肌がすべすべになりました。そして、夜は原田さんご家族とこたつを囲んでおいしい日本酒を飲みながら、会話を楽しみました。原田さんはお茶農家で、父親から農業を引き継いだ時に、思いきってコメから
お茶に作物をかえたそうです。お茶は加工にもこだわっていて、今ではおいしいと評判で、長崎県から表彰されるほどのお茶農家です。翌朝、茶畑を散歩すると、ちょうどお茶の花が咲いていました。白くて椿のような花でした。散歩から戻って家に着いた頃、山の間から太陽が昇ってきてその光がとても明るく眩しかったのが印象的でした。朝食は野菜やお米などほとんどが自家製というおいしいご飯をのんびり頂きました。食生活を含めて日々の暮らしを大切にすると体がどんどん元気になることを感じました。